「柑山」普天間菜穂子さん
お客さんの笑顔を浮かべ
唯一無二の美味しさを追い求める
神奈川県山北町の住宅地、富士山も見える山の上に「柑山(かんざん)」というパン屋さんがあります。お店に入ると30種類ほどのパンと共に、オーナーの普天間菜穂子さんが優しい笑顔で出迎えてくれました。
自然豊かな移住先でパン屋をはじめる
「柑山」のお店を開いたのは2021年4月。自然豊かな移住先を探す中で、たまたま行き着いた場所が神奈川県・山北町でした。
「相模湾と富士山を一望できる景色に惹かれて、ここに引っ越してきました。『柑山』は、この辺りがみかん山だったことから付けた名前です」
お店の営業は金土の週2日。仕込みから販売までをすべてひとりで手掛けます。営業当日は明け方2時頃から仕込みをはじめ、閉店後も片付けや翌日の仕込みなどで17時頃まで立ちっぱなしの日も多いと言います。
開店すると絶え間なくお客さんが訪れます。「このパンは薄切りにしてトーストすると香ばしさが増します」「ビーフシチューと合いますよ」……時には雑談を交え、店内からは笑い声が溢れていました。
会話を楽しみにリピートするお客様も多くいるようで、店主と客という枠を超え、温かなコミュニケーションが生まれています。
「お店をやるなら対面販売が良いと思っていました。お客様と話すのは楽しいですし、おいしかったと言われると、励みになります。全てひとりで試行錯誤しながらですが、『友達にもらったパンがおいしくて、お店を探して来たのよ!』『来週まで待てない』などのお声をいただくたびに、嬉しくて自信に繋がります」
お店があるのが山の上、限られた時間での営業ですが、多くのお客様に届けるために通信販売もしています。
「元々料理が好きだったので、カフェなどの経営も考えましたが、それだとお客様を待つことしかできません。パン屋ならマルシェに出店したり、通信販売でお届けできたりと、こちらからお客様との出逢いを広げられると思いました。『古代小麦の無塩パン』は、とあるお客様との出逢いがあってこそ生まれた想い出の商品でもあります」
販売チャネルを多数持つなど幅広く展開する一方で、地元産のしらすやオーガニックみかんなどを使ったパンからは、地域に深く根付いている様子もうかがえました。地元密着のパンは、食べておいしいだけでなく、地域の良さをも味わうことができます。
「移住してきたばかりの頃は、周りに知り合いがいなくて孤独でしたが、パンを通じて交流が広がりました。地域食材について教えていただいたり、家庭菜園のお野菜を頂戴したりと少しずつ地域に馴染んできたのを感じています」
未知なるパンの扉をたたく
普天間さんはWebデザイナーやペンション経営、保育士など、様々な職を経て、パン屋を開業しました。一見、パン作りとは離れた人生を歩んでいるように感じますが、自分でなにかを生み出す独創性は、パン作りに通ずるところがあるように思います。
「パンを食べるのは好きでしたが、家ではホームベーカリーで焼く程度で、パン生地を捏ねたことすらありませんでした。それでもいつの頃からか、いずれはパン屋さんになれたら……と、思い始めました」
自宅でたしなむ程度だったパン作りへの興味は、仕事帰りに体験教室へ通い始めたのを機に、むくむくと膨らんでいったそうです。小麦や酵母の働きを理論的に学び、食べ比べを繰り返すことで、作りたいパンの方向性が定まっていきました。
「微量の酵母で、低温長時間発酵させたパンが一番おいしいと感じたので、自分もこの方法でパンを作ろうと思いました」
「室内の涼しい場所で、ゆっくりと時間をかけて生地ができていくイメージの、昔ながらのパンの作り方です。小麦が時間をかけて分解されることで旨みが多く引き出され、酵母が少ないので甘味やおいしさが生地に残り、風味豊かなパンができます。国産小麦のもっちりとした食感で、時間が経ってもパサパサになりにくいんです」
理想とするパンに近づくよう、どんな材料をどれくらいの配合で混ぜ合わせるか、パズルのピースを組み立てるような作業だったと言います。 「パン作りは奥が深い……頭で考えることも大切ですが、生地から伝わる感性を大切にしています。『もう少し優しくまるめてね』『今日の窯入れは少し早かったよ』『蒸気が多かったね』などと、パンが日々教えてくれます。その声に耳を傾けながら、同時に学びを深め、小麦を始めとする食材が一番おいしくなるようなパンを作っていきたいですね」
ゼロからの挑戦だった研究の賜物がデビューを果たしたのは、店舗のオープン日よりも前のことでした。
「初めてのパン販売は、夫が経営するラーメン屋の一角に、パンを置かせてもらったことです。パンを置いて何日か経ったときに『前に買ったパンがおいしかったから、きっとラーメンもおいしいだろうと思って来た』というお客様がいらして、涙が出るほど嬉しかったのを覚えています」
ラーメン屋から始まった「柑山」のものがたり。お店の評判は口コミでどんどん広まり、今では開店前から行列ができるほどの人気です。
オリジナルな手作り作品
普天間さんのパンは手作りにこだわっています。主婦目線での考えが根底にあり、ジャムやあんこ、ベーコンなどもできあいのものではなく、自家製。お店の周りには、パンに混ぜ込むハーブやベリーも植えられており、食材へのこだわりを感じます。
「野菜やお米などを自給自足する家庭で育ったので、大人になっても手作りの食事が当たり前でした。子どもを育てる中で、添加物の入った加工品はなるべく避け、旬の食材を使った料理を楽しく食べることを心がけるようになりました。家族に出すのと同じような感覚で、お客様にパンをお届けしたいですね」
家庭的でありながら、いちごジャムと黒胡椒を合わせたパンなど、斬新なラインナップも印象的です。形式にとらわれない自由な発想が反映されており、ひねりのあるおいしさに、一口かじると思わず笑みがこぼれてきました。
「ここでしか食べられない、オリジナルを心がけています。駅前や商店街のように多くの方が日常的に通る場所ではないので……わざわざここのパンを選んでいただくために、来店してくださる方を裏切らないパンを作るために、どうしたら良いかといつも考えています」
手作りなのは、パンに限ったことではありません。内装デザインも自らが手掛け、自分らしい空間に仕上げています。
その中でもひときわ目を引いたのは、POPや案内板に描かれた、ふんわりとしたタッチの可愛らしい絵でした。それによって想像力が掻き立てられ、ワクワクしながらどのパンにしようか迷う時間も、「柑山」での楽しみのひとつです。
「絵を描くのは結構好きで、文字だけで書いてあるよりわかりやすいかなって。お店をやりながら工夫して改善しています」
訪れる人のことを考えて作られる、思いやり溢れるパンや店内。取材当日は「一度は帰ったけど、あのパンを買ってきてと頼まれた」と、1日に2度訪れる人の姿も見られました。何度も来たくなる心地良さが、ここにはあるのだと思います。
一歩一歩を大切に積み重ねて
店頭に立つ普天間さんは、とても穏やかで楽しそうにお話をしていましたが、パンを作っている最中は緊張状態が続くのだそうです。
「開業前にぼんやりと想像していたパン屋の仕事は、実際には倍以上の大変さがありました。手元では成形して、オーブンには焼いているものがあって、はたまた発酵中のものも……パン作りは、究極の並行作業です。最初は慌てふためいていましたが、1年経ってようやく俯瞰する余裕も出てきました」
「誰かに言われてやっているわけではなく、自分で決めて納得して、好きなものを作っているから続けられるのだと思います。まだ手をつけられていませんが、ベーグルやキッシュなど作りたいものは山ほどあって、いつかやろうと構想するのも楽しいですね」
低温長時間発酵というパンの特徴は、お店自体にも当てはまるかもしれません。大勢で一気に推し進めるのではなく、普天間さんおひとりの力で、少しずつできる範囲を広げていくようです。
「直近の課題は、一つ一つのパンを、更に美味しくしていきたいですね。昨日より今日、今日より明日のパンがおいしくなるように……ゆくゆくは、頭で考えずに自然と手を動かして、息をするように楽しいパン作りができればと思っています」
小麦が酵母の力でゆっくり膨らんでいくように、「柑山」もお客様の「おいしかった」という声に元気をもらいながら、少しずつ前に進んでいきます。
じわじわと進化する中でたくさんの人を虜にし、気づけば広く長く愛されるお店になっているのではないでしょうか。
お話をうかがっていると、食べた人の顔を思い浮かべながら、愛情を込めてパンを手作りしている様子が伝わってきました。
(文・写真 尾形希莉子)