「うさぎのしっぽ」 増子靖子さん
お客さんが喜んでくれるパンをつくりたい
美しい太平洋を臨む、茨城県北東部の日立市にある「うさぎのしっぽ」。毎週3日間、水・金・土のみオープンする小さなお店ですが、ご近所の方だけでなく遠方からも多くのファンが足繁く訪れます。ベーカリスタの増子靖子さんにその人気の秘密を伺いました。
住宅街の中にある小さなパンやさん
JR日立駅から海沿いの道をクルマで北へと走らせ、住宅街の細い路地を進んだ先に「うさぎのしっぽ」はあります。
日立市の中でも穴場的なスポットなのですが、開店7周年を迎えた現在でも土曜日は午前中に完売してしまうことが多く、日立市内で焼き立てのパンを販売する小さなお店としてパイオニア的な存在です。
このお店の人気No.1のパンは、店名が付けられた「うさぎのしっぽぱん」。チョコ(140円)、つぶジャム(130円)、プレーン(120円)の3種類が用意されています。
「リピーターさんほど生地のおいしさが味わえる、シンプルなパンを好まれるんですよ」と、靖子さん。
北海道産小麦粉ゆめちから、ホシノ天然酵母、厳選された卵など、良質な素材と丁寧な仕事が作りだす深い味わいと、ふんわりとしたやさしい口あたりが、多くの人々を魅了してきました。
人気No.2は「塩パン(130円)」。四角の粗粒状と粉状の2種類のドイツ産岩塩をトッピングしているのが特徴です。
内側にバターを巻き込んでいるだけでなく、上にもバターがたっぷりと塗られているので、外側はカリッと焼き上がり、中はもっちもち。バターの香りが口の中いっぱいに広がります。焼き立てを一度食べたら、忘れられなくなる一品です。
店頭には定番パンと週替わりパン、合わせて約15種類のパンが並びます。
お客様の意見を取り入れて改良を重ねたオリジナルレシピがたくさんあり、2ヶ月の間に1週間だけしか登場しないパンもあるほど。お客様のリクエストに答えて、食パンやフランスパンもメニューに加えました。
「お客様が喜んでくれるパンを作りたい」と、靖子さんは思っています。
地元の焼き立てパン店で製造5年、パン教室を3年間主宰
靖子さんは幼い頃から、お姉さんと一緒にお菓子を作るのが大好きな内気な女の子でした。社会人になり、本屋でふと手に取った初心者向けのパン作りの本がきっかけとなり、パンを作り始めます。結婚して二人のお子さんに恵まれた後も、趣味としてパンを焼いていました。
本格的にパンを作り始めたのは、下のお子さんが幼稚園に通いだしたのを機に仕事を探し始めた時から。近所のスーパーの中にオープンした焼き立てパンのチェーン店でパートとして働き始めます。店舗内で成型から焼きまでをおこなう製造と材料の発注を担当しているうちに、パン作りの魅力にハマっていったのです。
「パン生地を触っていることに喜びを感じるようになりました。何とも言えない、あの手の感覚が愛おしくて」
働きながらパン教室にも通い始め、仕事のある日も休みの日もパンを作る毎日を約5年間続けました。
しかし、そのお店が突然撤退することに。十数年前の日立は質よりも量を重視する人が多く、大手パン企業のお手頃な価格のパンを買う人が大半。開店当初は物珍しさもあり売り上げもありましたが、高いお金を出してまで焼き立てパンを買い続けてはくれなかったのです。
職を失ったことで、「自宅でパン店を開業したい」とご主人に相談しますが、あっさり却下。それでも靖子さんは落ち込んで立ち止まることなく、「じゃあ自宅の一室でパン教室から始めようかな」と、気持ちを切り替えて前向きに一歩を踏み出すことに。
「最初はママ友や習い事のお友達を誘いました」興味本位で教室に通い始めた生徒さんたちでしたが、焼き立てパンのおいしさに目覚める人が続出。口コミで生徒さんが増え始め、最終的には約50人に。
靖子さんは生徒さんにもっといろいろな種類のパンを楽しんでほしいと思うようになり、オリジナルレシピ作りにも励むように。
試作を重ね、生徒さんたちに意見を聴きながら改良を重ねていった結果、オリジナルレシピは数十種類にもなりました。「うさぎのしっぽぱん」や「ベーコンくるみぱん」など、生徒さんに評判の良かったものは、現在「うさぎのしっぽ」で販売されています。
小さなパンやさん開店への第一歩
パン教室も軌道に乗り始めていた2011年3月、東日本大震災が発生。茨城県日立市も被害に見舞われました。
最初はパンのお店を開くことに反対していたご主人でしたが、震災を経験し、考えを新たにすることが多々あったようです。今度はご主人の方から「パン屋さんを始めてみたら」と勧めてくれたのだそう。
さっそく近所の工務店に行き、パン教室で使っていた約6畳+クローゼットの部屋を店舗へとリフォームした場合の見積もりを出してもらうと、約300万円との回答が。器具や備品代の約100万円を合わせると、計400 万円。ちょっぴり高級なクルマを1台買うのとほぼ同じ金額です。
「自分のお店を出すなんて大変な事のように感じていました。ですが、ママ友の中には自分専用の車を持っている人もいますので、同じようにクルマを1台買ったつもりでいればイイんだと思うと、ふっと肩の力が抜けて気が楽になりました」
すぐに開店準備へと向け、新たな第一歩を踏み出したのです。
口コミだけで連日大行列
靖子さんは新しいお店は地元に密着したお店にしたいと思っていたので、オープン前は広告を出すこともなく、ご主人がパソコンで作った開店御挨拶のカードをパン教室の生徒さんとご近所の十数件ほどのお宅に配っただけでした。
ただし、オープンの記念として全品100円で販売することは決めていましたので、カードにも書いてアピールしました。
2013年、待ちに待った小さなパンやさん「うさぎのしっぽ」開店の日。
オープン前に店の前をふと見ると、すでに大行列ができていたのです! おいしさとお手頃な価格が評判となり口コミで広まっていたようで、あまりにも反響が良すぎて一瞬で100個を完売。
近所に暮らしているお姉様の雅代さんに3ヶ月間だけ販売の手伝いをしてほしいとお願いしていましたが、パン作りは靖子さんが一人でおこなっていました。
看板には「売れ切れ次第終了」とは書いていましたが、お客様が待ってくれるのであれば頑張って作りたいと、多い時は1日300個以上のパンを朝の3時から夕方の4時頃までヘトヘトになりながら一人で焼き続けました。
気持ちを切り替えマイペースで、パン作りを楽しむ
靖子さんの作る焼き立てパンの味は大好評で、開店してから数年たっても衰えることを知りません。結局、お姉さんはずっと販売の手伝いを続けてくれていました。
靖子さんも頑張って一人でパン作りを続けてきましたが、開店から3年後の2016年に、とうとう体を壊して2カ月間お店を閉めることに。
それからは考え方を変えて、マイペースでパン作りを楽しむことにしました。天気や曜日を考えながら1日に焼くと決めた数のパンを売り切れれば、それでイイと思えるように。
他にも変化がありました。体調を崩したことをきっかけに、ご主人が4時に起きて、出勤前に洗い物などの簡単な手伝いをしてくれるようになったのです。実は、「ベイクマ」での仕入れを提案してくれたのもご主人です。インターネットで小さなパンやさん専用の良質な素材を卸している「ベイクマ」を見つけてくれたそう。
「今まで使っていたのと同じ、北海道産ゆめちからをベイクマから数種類取り寄せたところ、どれもおいしかったんです。同じ品種でも膨らみ方が満足できないものや成形の際に扱いにくいものもあるのですが、すぐに理想的な小麦粉が見つかりました」
また、時々サンプルが送られてくるのも魅力のひとつだと言います。「サンプルでいただいた小豆粉を加えてパンの試作品を焼いてみたところ、生地がしっとりして2〜3日経っても柔らかったんです。お客様にも試食していただいたところ、好評でしたので新しいレシピとして加える予定です」
今まで知らなかった素材に出会えたり、少量の注文ができたりするので、新しいレシピを研究するのにとても役に立っているそうです。
今年の春に専門学校を卒業して調理師の免許を取得した娘さんも、靖子さんとご主人の体を気遣い、仕事前にお店を手伝ってくれるようになりました。将来は、娘さんと海の見える場所にカフェをオープンして、靖子さんの焼いたパンをメニューに載せたいと考えています。
靖子さんは小さなパンやさんを開いたことで、地域の人との絆を強めただけでなく、家族や姉妹との絆も強めることになりました。
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人気の秘密は市場調査とパンへの愛情、そして改良を重ねたレシピへの自信
「私のお店でパンを1個でも買ってくださるのは、本当に嬉しいです。材料費や手間を考えると、あと30円は高い価格を付けたいところですが、1個140円のパンは日立の方にとっては高いと思われるはず。スーパーの食パンであれば、1袋が買える値段ですから」
改めて考えてみると、パート先の閉店という経験が計らずも価格設定する上での良い市場調査となったようです。
「家族にはいつも笑われているのですが、自分が作ったパンが一番美味しいと思っているんです(笑)」と、瞳を輝かせながら恥ずかしそうに語ってくれました。お客様からも「ここのパンが一番美味しい」と言ってもらえると、やりがいを感じるそうです。
厳選した良質の素材、幸せな気持ちでこねられた生地、洗練されたレシピ……。小さなパンやさんにしか生み出せない最高のパンが、ここにありました。
(文・写真 北川りさ)